私が気付いた時、小椋佳は既に二足のわらじをはいていました。
サラリーマンのセカンドビジネスとして、フォークソングでこんなに有名になった人も珍しく、本音を言えば、かなりうらやましく思っていました。
小椋佳は、第一勧業銀行で国際企画部長職にあるエリートサラリーマンでした。
きわめてコンサバな業界で雇われながら、陽水言うところの「ヤクザな水商売」の世界との両立を図るのは、かなり大変だったのではないかと思います。
ところが小椋佳は、そんな生活を定年を待たず50歳でやめてしまいます。
ここに小椋佳のインタビュー記事があります。
これを読むと、同じような年齢・立場になった僕は、ある種の同情すら感じてしまいます。
そうです、部長をはじめ管理職なんて、聞こえは良いのですが結構退屈な仕事なのです。
自ら何かを想像することもなく、ただ船長の指示のとおり、方向を間違えずに岩礁を避け、船員のいざこざを上手くまとめ、経費の出費を抑える、そんな仕事なのです。
更に、小椋佳退職の1993年と言えば、バブル崩壊が決定的になった年です。
護送船団方式や右肩上がりの成長神話が、真正面から否定されました。
銀行員だった小椋佳には、おそらくその後の日本の行く末が、ハッキリと見えて来たのでしょう。
このまま仕事をして仮に役員になったとして、自分の人生は一体どうなんだろう?
通常であれば子供が独立して、第二の自分の人生を考え始める頃です。
しかし、ハンディキャップを持つ息子を抱えた小椋佳は、おそらくかなり悩んだのではないでしょうか。
安定を約束された代わりに受け入れなければならないのは、「退屈・事なかれ主義」と言うかつて自分自身がもっとも嫌っていた生き方なのです。(注1)
小椋佳は考え抜いた末に早期退職を選びます。
そして、残りの人生を「自ら創造する」と言う管理職とは正反対の生き方で締めくくることを決意します。
おそらくここのページで語られているように「歌が息子に回復力を与えた」と言うことも、小椋佳の大きな決断の要因だったはずです。
通常、会社員は副業を認められていません。
ましてや、高度成長時代です。歌を歌いながら、仕事を続けるのは相当大変なことだったと思います。
会社の人事部はどのように判断して、サラリーマンの兼業を許していたのでしょうか。
力のある役員が後ろ盾になっていたのでしょうか。
企業イメージとして、広告宣伝費と考えれば、兼業フォークシンガーを飼っておくこともまた、会社の思惑と一致していたのでしょうか。
バブル崩壊を境に、小椋佳は、自分に対する行内の視線が変わることに一早く気づいたのかもしれません。
ここで紹介する「木戸をあけて」は、家出の歌です。
「家出をする少年が母に捧げる歌」と副題がついています。
私は、この曲を聞くと小椋の歌う「家出少年のあこがれ」とは、いったい何ですか?と聞いてみたくなってしまいます。
おそらく歌中の少年の環境は、家を出て行くことを許してくれないのだろうし、母に迷惑をかけると自責しますが、それでも出て行く程のあこがれだったのです。
しかし、少年はその憧れを面と向かって母には話しません。
おそらく母には、分かっていたのです。
少年が母へ捧げるの惜別の思いを、母は木戸の隙間から少年の後姿に見て、心に納めるのです。
家出とは息が詰まりそうな現実から力づくで脱出することだと理解していた私には、この曲の持つ意味を上手に理解できないでいました。
たぶん、やさしい少年なのでしょう。
母にはかけがいのない息子なのでしょう。
直情的でなく知的で、感情をコントロールできる少年なのです。
家出の理由など母には言ってはならないことなのです。
それは、母を苦しめることなのです。
しかし、少年は出て行きました。
小椋佳は、定年を待たずに50歳でサラリーマン生活にピリオドを打ち、銀行を離れました。
それは、自ら創造すると言う世界が小椋佳の憧れだったからなのではないでしょうか。
(注1)
いえ、安定などありませんでした。
都市銀行は空前の再編成が行われ、第一勧銀は、興銀、富士とともにみずほフィナンシャルグループとなり2002年対等合併、現在に至っています。
2005/02/01(初稿)
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