どんな曲を作ってもありふれたマイナーコードになってしまう平凡さを救っているのは、まぎれもなく高域まで良く伸びる陽水の声と星勝のアレンジ力の賜物なのだが、この「人生が二度あれば」においては、そんな心配は一切無用である。
思いっきり泣いてもらいましょう。
沈んでもらいましょう。
落ち込んでもらいましょう。
10代では想像が難しい「老い」を僕に教えてくれたのが、この「人生が二度あれば」だった。
かけた湯飲み、子育て、若い頃の思い出、・・・・
そんなモノをちりばめて、陽水は自分の両親を語った。
田舎の開業医の息子である陽水は、三度の医大受験に失敗し、父の希望も自らの義務も果たせないまま、芸能界などと言う「ヤクザな世界」に足を踏み入れてしまう。
明治時代の社会主義者・幸徳秋水の血を引き告ぐという陽水(真相は不明、ライナーノーツに書いてあったが・・・)は、根っからのビートルズファンだったというが、このアルバムからは、全くと言って良いほどその匂いを感じることができない。
「人生が二度あれば」を改めて聞いてみると、さすがに中年になった「僕」にはこたえる内容だ。
父の顔のシワ、母の細い手、時間に追われる生活、歌の内容すべてが等身大で感じられる。
でも、だからと言って、人生が二度あったところで何も変わらないし、生まれ変わりたいとも思わない。
生まれ変わったとしても、この「自分」のままで良いし、他の何になろうとも思わない。
確かにどこかのお金持ちであれば違う人生なのかも知れないが、無いものねだりを繰り返したところで、何の充足感も得られないことを充分わかってしまってるからだ。
Q)「人生が二度あれば」と誰が思ったのだろう?
陽水は自分の両親を見てそう思ったんだろうな。
もしかしたら、もっと楽しいことがあったんじゃないか。もっと幸せな生活があったんじゃないか。
だから、できることならもう一度別の人生を送らせてあげたい。そう思ったんだろうな。
でも、おそらく当の本人達はそんなに深刻に考えちゃいないはずだ。
ありふれた日常の中に、陽水のセンチメンタリズムを感じさせる「人生が二度あれば」だが、年老いて(加齢して)行くのはそんなに寂しいことじゃない、今僕はそう思っている。
いくつかのキーワードをパズルのように結びながら体裁を整える作詞法が、陽水のニヒリズムの真骨頂なのだが、「自責の念」を最大限にまで拡大解釈し極度な自己陶酔感を感じさせるこの曲も、誰にもマネのできない「これぞ陽水ワールド」である。
2003/10/23(初稿)